思い出すだけで涙が出てしまう話。
2009年、2010年、振り返ってみると、本当に嵐のような出来事ばかりでした。
2011年、そしてこの先も、自分がダメになりそうなとき用に記録しておきます。
両親から、本人の意思を尊重してこの書類にサインをしてくれ、と求められました。
不治の病の際は延命措置をせず、安らかに死を迎えさせてほしいという内容でした。
書類は2枚あり、父のものには母が、母のものには父がそれぞれサインしていました。
その書類の意味の重大さを考えると、簡単にサインできず、いまだにしていません。
なぜ、私の両親がこんな紙にサインを求めてくるかというと、
それほどふたりは死に直面し、お互いの死を身近に感じているからです。
長女である私は上京し、結婚し、毎日忙しく過ごしていました。
長男である弟は東京の大学に通い、
姉弟とも東京にいるわりに会うことは滅多にありませんでした。
ある日、父の水虫が母に移った、と母が悲鳴をあげ、父は病院に行かされました。
水虫の治療で病院に行った父は、それとは別に、とんでもない病気を知ることになりました。
その病気は誰でも知ってる、癌です。両親は三日三晩泣き続けたそうです。
父は、母とふたりで小さな会社を経営しています。
いくら小さいといっても母一人で父の会社をやっていけるわけもなく、
上京していた弟が大学を辞めて父の元で勉強を始めました。
母から何度か電話がありましたが、私は忙しいことを理由に電話もすぐ切り、
とうとう父の癌を知ることもないまま、父の癌手術が行われました。
そんなことすら知らず、私は自分の結婚生活と仕事に疲れていました。
ケーキ屋最大のイベント、クリスマスが終わって、バレンタインまで忙しく、
そう言えば実家から着信あったな、と思って電話しました。
『お父さん退院するよ』と弟の声。
あれ?なんで弟が実家にいるんだ?
お父さん退院ってなんだ?入院してたの?!
なんでそんな大事なこと知らせてくれなかったのか、と母を責めました。
クリスマス近辺は仕事に打ち込んでるから言い出せなかったと母は言いました。
たしかに、早朝より、夜中2時くらいまで働くことがよくありました。
栄養点滴して働くような生活をしていました。
それで、親の癌を知りませんでした。
ケーキ屋で働く自分がイヤになりました。
それからまもなくして、大好きな父方の祖父が心臓を患って倒れました。
祖父が倒れたくらいじゃ休みを取らないのが普通ですが、
東京から北九州まで飛行機で移動するため、休暇をとって地元に戻りました。
なんとなく、すごく大事なことのような気がしたので休みました。
弟の結婚式に参加すると張り切っていたのに、私と弟に看取られて祖父は亡くなりました。
生まれ変わりのように弟夫婦に男の子が誕生。
そんな中、私は5年以上離婚でもめていた夫とついに別居、
上京10年にピリオドを打って帰省。
帰ってきたこと、理由はどうであれ父に怒られると思っていました。
私が離婚を希望する理由を父に聞かれ、話しました。
生まれて初めて、怒りと悔しさで泣く父の姿を見ました。
もう一度東京戻って話し合いをする、という私に対して、
もう二度と東京に行かなくていいからここに居なさい、と父。
予想外でした。
その頃、父は突然ハゲました。
私の離婚問題のせいでハゲたと言います。
たぶん抗がん剤のせいでハゲたんだと思うのですが、それは断固否定していました。
時を同じくして同居の母方祖母の末期癌が発覚。
父と祖母が癌、私は離婚問題、弟は仕事が半人前、
すべては母の負担となり、母は精神的にも肉体的にもボロボロでした。
祖母には点滴の注射針がついて、薬でウツ状態と興奮状態が繰り返されました。
昼も夜も祖母は寂しがり、私の母の名を呼び続けました。
短い自宅介護で祖母の死を見届け、あんなに元気だった祖母がいなくなりました。
小さなお葬式をするために、小さな葬儀会場を選びました。
お寺のお坊さんが、祖母の親しかった人ひとりだけに連絡をしてくれました。
ところが、祖母の人柄でしょうか、
葬儀会場に入りきれないほど多くの方が葬儀に参列してくれました。
号泣する母の背中をなでました。
『お母さんはね、悲しくて泣いてるわけじゃないんよ。
おばあちゃんがこんなにたくさんの人に愛されてたことを知らなかったんよ。
誰も呼んでないのに、こんなにたくさんのお友達が集まってくれて・・・
お母さん、嬉しいんよ、嬉しくて涙が止まらない。』
これで私の祖父母はみんないなくなってしまいました。
母の姉妹も集まり、祖母の過ごした部屋で寝ていました。
葬儀の翌日です。
夜に何やら変な音に私が気付いて、家の中を見回ると玄関がプールのように・・・
ほんの2〜3分ほどで90cmの高さまで水が押し寄せてきて、あっという間に床上浸水。
祖母の位牌と遺骨をビニール袋に入れて抱え、愛犬をリュックに入れて背負い、
窓から塀をよじ登って、父が手を引いてくれ、少しでも高いほうへ脱出しました。
親と手を取り合い、腰より深い泥水の中を歩いて避難所へ向かいました。
葬儀に参列してくれた一人暮らしのお年寄りに声をかけ、連れだしました。
避難所さえも避難勧告が出ていて入れず、次の避難場所へ向かえと指示されました。
押し寄せる洪水の中、手をつないで高いところを目指して歩きました。
2kmほどしか歩いてないはずなのに、足はクタクタでした。
道路は自衛隊に封鎖され、夏なのに体は寒さで震えました。
しばらくすると被災者用毛布と被災者救援箱のような物資が届きました。
家は・・・父の会社は・・・どうなっているんだろう・・・・
真夜中、少し水が引いたとの情報があり、
父と二人で荷物を取りに家へもどりました。
車はメーターまで浸かり、盗難防止装置の防犯音が鳴っていました。
鍵も流れてどこへ行ってしまったかわからず、
新車を鉄の棒でこじ開けて破壊して音を止めました。
母たちを連れてくるから、一人で家で待っていなさい。と、
父は私を置いて小学校へ向かいました。
家の中が泥のプールのようでした。
感電するから何も触るな、どこにも行くな、と言われてテーブルの上に座って待ちました。
ダムの放流警報が、今頃になって響き渡りました。
父から渡された懐中電灯で、家の中を見ました。
ほとんどの財産がゴミになっていて、真っ暗な家で、怖くて泣きました。
翌朝、明るくなって、改めて家を見て、親が脱力感で投げやりになりました。
父の会社は床が道路と同じ高さのため、机の引き出しはすべて泥水で開かなくなっていました。
町内で私の実家が最も被害が大きかったため、
葬儀に参列してくれた方が、おにぎりを作ってくれたり、掃除を手伝ってくれました。
毎日のように、食事を差し入れしてくれる人がいました。
父の友達が大勢、力を貸してくれました。
へとへとなのに、また大雨が降るとの予報があり、土嚢を作って積み上げました。
祖母がもし寝たきりだったら・・・・考えるだけでゾっとします。
水害で寝るところさえ失いそうでしたが、祖母の部屋が、かろうじて使えました。
祖母が私たちに部屋を提供してくれたように感じました。
骨になって、こんな小さい箱に入ってくれて、本当によかった。
おかしな言い方ですが、こうなっていなければ、
点滴のついた祖母をどうやって避難させることができたかわかりません。
母の姉妹も集まっていたし、水害でほとんどのものはゴミとなってしまっていたので、
祖母の思い出の品を整理するのに時間はかかりませんでした。
思い出に浸る時間すら与えられませんでした。
東京に嫁に行ったはずの娘が、ずっと災害復旧の手伝いをしている。
まだ東京戻らなくていいの?といろんな人に言われて親も私も困惑しました。
何か月も復興作業をしましたが、家の中には学校のトイレ掃除に使うような、
なんとかゾールという臭い消毒剤が撒かれ、とても生活できる場ではありませんでした。
北九州市や、自衛隊の人は誰ひとりとして手伝いに来てくれませんでした。
あとになって知ったけど、県内で土砂崩れ被害でもっと悲惨な場所があったらしい。
市からの見舞金は1万5千円、国からの見舞金は1万円でした。
水害のときに必死に頑張る私に、ある男の人が興味を持ったようです。
のちに私はその人と付き合うことになります。
ちょっと落ち着いた、ある日のこと。
弟から電話がありました。
『母さんが頭から血を流して、家の前の道路に倒れてる』
弟の話によると、
『救急車呼ぼうとしたんだけど、姉ちゃん姉ちゃんって言ってるから来て。』
姉ちゃん(つまり私)を呼んで、と母が言ってるとのこと。
用事を中断してあわてて駆けつけると、やはり血だらけの母。
よくわからないけど、父に連絡して病院に向かいました。
顔面の手術となりました。
幸いにも骨は折れていませんでした。
あとでわかったのですが、
いかにも転びそうなへんなスリッパを履いて窓を拭いていたところ、転んでしまったようです。
このまま母まで死んでしまうのでは・・・と一瞬本気で思ったんですがね。
『たぶん母さん死ぬとき、ばあちゃんみたいに姉ちゃんの名前呼び続けるよ』
弟が言う通りかもしれません。
それほど必要としてくれるのなら、
離婚した娘も肩身の狭い思いをせずに家に居られます。
父の癌、祖母の死、水害を経験してゆくなかで、親子の絆は深まったと思います。
ようやく私の離婚が成立し、親は『おめでとう』と言ってくれました。
離婚を祝ってくれる人がいるなんて不思議で唖然としました。
新しいスタートなんだから、お祝しなきゃね!と親が励ましてくれました。
そして嘘のように、父の体から癌細胞が消えました。
奇跡だと思いました。
そして父のハゲも見事に治りました。
奇跡だと思いましたが、父は当然だと言っています。
ほんとに娘の離婚問題が原因のストレスハゲだったのでしょうか・・・。
私の離婚が成立して、水害のときに知り合った彼と、楽しくお付き合いが始まりました。
彼の両親は離婚しているらしく、母親と住んでいるそうで、
私の離婚について彼は多くを聞こうとしませんでした。
そんな彼の父が倒れたと、突然の連絡がありました。
末期癌でした。
彼は毎日のように、父親の体を拭きに足を運びました。
『父ちゃんにとっても、俺にとっても、世界に一つの親子関係だからね。』
私は、会わないままだと何か後悔しそうな気がして、
まだお付き合いは始まったばかりだけど、一度お見舞いにいきました。
また顔見せに来てね、と言ってくれましたが、一度きりとなってしまいました。
数日後、彼の父は亡くなりました。
もっと話したいことがあった、と彼は号泣しました。
何も乗り越えたわけではないけど、年は変わって2011年。
泣いた2010年、それでも後半は笑って過ごしました。
何かを失っても、それは新しい何かを始めるためのチャンスかもしれない。
何もかもが不幸中の幸いでした。
父の癌を、祖母が吸い取ってくれたようにさえ思いました。
私が別居で戻ってこなければ、水が押しせまったことに両親は気付かなかったのは事実。
私が復旧を頑張らなければ、両親は家を捨てていたそうです。
ありがとう、と言ってくれました。
両親が全力で私の心のケアをしてくれました。
離婚で帰ってきた娘が肩身の狭い思いをしないように、
両親が気をつかってくれているのがすごくわかります。
別居を考えていた頃、自分だけが不幸の真ん中にいるように思っていました。
でも、そうじゃないことが痛いほどよくわかりました。
親の死は、『親が子に教える最後の親の仕事』だと聞いたことがあります。
そうなのかもしれない。
そして離婚は、世間一般では堂々とできる喜ばしいことではないけども、
私にとってはとても晴々しく、もう一度人生を与えられた気がします。
たくさんの人に助けられました。感謝感謝の毎日です。
前向きに行こう。やりたいこと、いましかできないこと、何でもやろう。
その結果が、今運営しているお菓子作りサークルです。
積極的に頑張ると、多くの人が協力してくれるようになりました。
父と母は、ご先祖様のお墓がある瀬戸内海の島で、山の上のペンションを借りました。
魚釣りをしたり、畑を作ってスローライフを楽しんでいます。
このままでは死んでも死にきれない、癌と闘う父は私を心配してそう言いました。
大丈夫、もう気持ちはリセットされたから。
とても長い文になりましたが、私の個人用の奮闘記でもあります。
もし、私と同じように、自分だけが苦しんでいると感じる境遇の人がいたら、
これを読んで少しでも不幸から這い上がろうという気持ちになってもらえたらと思います。
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